福岡高等裁判所 平成7年(ネ)101号 判決 1999年2月25日
控訴人 亡宮坂尊徳
訴訟承継人 宮坂美代子 ほか二名
被控訴人 国 ほか三名
代理人 樋口健児 鈴木雅利 ほか五名
主文
本件各控訴を棄却する。
控訴人らの当審における請求を棄却する。
当審における訴訟費用は控訴人らの負担とする。
事実及び理由
第一申立て
一 控訴人ら
1 原判決を取り消す。
控訴人らと被控訴人らとの間で、控訴人らが、別紙第一図<略>の42、46、48、49、26、25、24、29、42の各点を順次直線で結んだ範囲内の土地(以下「B地」という。)、及び同図面の39、40、41、18、21、39の各点を順次直線で結んだ範囲内の土地(以下「A地」という。)につき、所有権を有することを確認する。(控訴人らは、当審において、右請求について請求の趣旨の訂正及び請求の減縮をした。)
2 被控訴人熊本県、同福岡県及び同大牟田市は、控訴人らに対し、A、B各地につき、真正な登記名義の回復を原因とする所有権移転登記手続をせよ。(控訴人らは、当審において、右請求を追加した。)
3 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。
二 被控訴人ら
主文同旨
第二事案の概要
本件は、控訴人らが、被控訴人らに対し、各所有地間の境界付近の土地につき、所有権の確認と所有権移転登記手続を求めた事案である。
一 基礎となる事実(<証拠略>)
1 亡宮坂尊徳(以下「亡尊徳」という。)は、別紙物件目録記載一の土地(右土地は、字図に一八六二番という地番で表示されていたが、これに対応する土地台帳及び登記簿がなかったため、後記7の本件地籍調査により、一八六一番の登記簿に記載されることになった。以下、右土地を「甲地」という。)を所有していた。
2 被控訴人国は、甲地の北側境界線に接する里道(以下「本件里道」という。)を所有している。
3 尾上一雄は、本件里道の北側境界線に接する荒尾市金山字柳添一八七一番の山林(以下「乙地」という。)を所有していた。
4 本件里道は甲地と乙地との境界(淀野と柳添との字境でもある。)にあり、幅員約一メートルであったが、昭和三九年ころ、今村勝馬ほか三名がこれを拡幅した(以下、これを「本件拡幅」といい、拡幅後の本件里道を「本件拡幅道路」という。)。
5 被控訴人熊本県、同福岡県及び同大牟田市(以下「被控訴人熊本県ら」という。)は、昭和四八年一〇月二五日、尾上一雄から、水道管埋設のための有明大牟田工場用水道事業用地(以下「本件管路敷」という。)として、乙地から分筆した別紙物件目録記載二の土地(以下「丙地」という。)を買い受け、右被控訴人らの共有地とした。乙地(当時の登記簿上の地積は二六三八平方メートル)は、同年一二月一〇日、丙地、一八七一番一及び本件管路敷によって飛び地となった一八七一番二に分筆され、登記簿上の地積は、丙地につき七九六平方メートル、一八七一番一につき一二二〇平方メートル、一八七一番二につき六二一平方メートルとされた。登記所備付けの図面(以下「旧字図」という。)では、右各土地の位置関係は別紙第二図<略>(図面に向かって左が北)のとおりである。
6 被控訴人熊本県らは、昭和四九年ころまでに、本件拡幅道路を併せた幅員約六メートルの本件管路敷(本件里道については事業用地として道路占用許可を得た。)に水道管を埋設し、その直後ころ、本件管路敷が甲地に接する部分の東側半分の甲地側に、擁壁を築いた(以下、右擁壁を「本件擁壁」という。)。本件管路敷の位置は、別紙第三図<略>(図面の下が北。右図面は、本件管路敷の用地買収にあたって作成された丈量図(<証拠略>)の一部分である。以下、右丈量図を「本件丈量図」という。)の赤色部分である。
7 甲、乙各地を含む金山地区では、昭和五七年ころから昭和五九年ころにかけて、国土調査法に基づく地籍調査が実施され(以下、右地籍調査を「本件地籍調査」という。)、これに基づき、地籍図(主なものとして、<証拠略>があるが、別紙第四図<略>の1ないし3(いずれも図面の上が北)は、順次、右各地籍図の一部分である。以下、右各地籍図を順次「本件地籍図1ないし3」という。)と地籍簿(一筆ごとの土地の所在、地番、地目、面積及び所有者について行った調査・測量の結果を記載したもので、<証拠略>がこれにあたる。以下、右地籍簿を「本件地籍簿」という。)が作成された。
8 昭和五九年一一月二六日、本件地籍調査による成果として、登記簿上の地積が、甲地につき七九三平方メートルから四三一六平方メートルに、丙地につき八五一平方メートルに、一八七一番一につき三七三〇平方メートルに、一八七一番二につき四九一平方メートルにそれぞれ変更された。本件擁壁は、別紙第四図<略>の1のくびれた部分から同第四図の2の丙地の東端以遠まで、設置されており(以下、本件管路敷が甲地に接する部分のうち、丙地の東端までの本件擁壁設置部分を「本件東側線」といい、くびれた部分から西側部分を「本件西側線」という。)、別紙第一図<略>の25、24、29の各点を順次直線で結んだ線は本件擁壁の法下の線である(以下、これを「本件擁壁線」という。)。
9 亡尊徳は平成七年四月二五日に死亡し、相続により、控訴人らが甲地の所有権を取得した。
二 争点
1 A、B各地は甲地の一部か。
(控訴人らの主張)
(一) B地について
当審における鑑定人今田盛生の鑑定結果(空中写真による道路幅員の測定。以下「今田鑑定」という。)によると、昭和四二年七月二九日当時の本件拡幅道路の幅員は平均二・九三四メートルである。そして、本件拡幅は甲地側になされたから、本件拡幅道路のうち本件里道の幅員一メートルを除いた幅員一・九三四メートルの部分は甲地に属する。その上、被控訴人らの主張する後記2の本件合意によって、本件管路敷は本件東側線において甲地側に約一メートル拡張されたから、少なくとも、本件擁壁線から北側一・五メートルまでは甲地に属することに間違いない。したがって、B地は甲地の一部である。なお、別紙第一図<略>の47、48、49、47の各点を順次直線で結んだ範囲内の土地を除外したのは、これが、昭和四九年一一月一三日付けの「土地売買に関する覚書」(<証拠略>。以下「本件覚書」という。)により、本件管路敷の用地として亡尊徳が被控訴人熊本県らに売却した土地にあたる可能性があるからである。
(二) A地について
旧字図(<証拠略>)では、本件里道は淀野と柳添との字境にあるところ、本件管路敷の用地買収にあたって作成された本件丈量図には、別紙第三図<略>のとおり、一点鎖線によって字境が表示されている。(「字淀野」は「字柳添」の間違い)。そして、前記(一)のとおり、本件丈量図に表示されたB地付近の字境の位置と本件里道の位置は誤りであって、実際にはこれより北側に位置するが、本件丈量図に表示されたA地付近の字境の位置は、これがあえて本件里道と一致しない位置に表示されていることなどからすると、事実に合致しているものと考えられる。そうすると、右の字境に本件里道があったことになり、かつ、前記(一)のとおり、本件拡幅道路の北側一メートルは本件里道であるから、少なくとも、右字境から一メートル幅の土地を除いた別紙第三図の黄色部分は甲地に属する。したがって、右黄色部分を表示したA地は甲地の一部である。なお、別紙第一図<略>の21、39の各点を結んだ直線は本件丈量図に引かれた垂線であり(これにより請求の範囲を定めた。)、40、41の各点を結んだ直線は本件地籍図2(別紙第四図の2参照)の丙地の東端の線である。
(三) A、B各地共通
控訴人らは、土地の特定を確実にするという趣旨で、請求の対象をA、B各地に限ったが、本件拡幅は甲地を取り込んでなされたから、本来、本件里道は本件拡幅道路の北端に位置し、本件管路敷の中央より北側に位置するものと確信している。このことは、次の事実からも明らかである。すなわち、丙地は乙地から分筆されたから、丙地と一八七一番一は接しなければならない。ところが、本件地籍図1、2は、当初、一八七一番一の東側の境界を丙地の東端まで延びる形で表示していたのを(<証拠略>)、別紙第四図の1のように丙地が一部接しない形状に修正しており、本件地籍図3には、別紙第四図の3のとおり、一八七一番一の右修正箇所に狸谷二〇七一番一が表示されている。一方、本件地籍簿(<証拠略>)においても、一八七一番一の本件地籍調査後の地積が四一三三平方メートルから三七三〇平方メートルに訂正され、登記簿上の地積も本件地籍調査による成果として三七三〇平方メートルと記載されている。しかし、本件丈量図における一八七一番一の面積をコンピューター座標読取りによって算出すると、四二二五平方メートルとなって、右の訂正前の地積と近い数値となる。これは、本件管路敷の用地買収の際、誤って、本件里道を本件拡幅道路の南側に位置付け、甲地を買収すべきなのに乙地を買収してしまったため、本件地籍調査の際、一八七一番一において、甲地から取り込んだ土地の面積が余ってしまい、その面積分の土地を狸谷二〇七一番一に逃がす、というつじつま合わせの作業が行われた結果である。
(被控訴人熊本県らの主張)
(一) B地について
控訴人らの主張は、本件拡幅が乙地も削られてなされたこと、昭和四二年七月二九日当時の空中写真に関する今田鑑定においても、本件拡幅道路の幅員が二・五メートルを下回る箇所があること、B地には、亡尊徳が本件覚書によって本件管路敷の用地として被控訴人熊本県らに売却した部分(別紙第三図<略>の緑色部分を含んで、これより広い土地)も含まれていることなどを看過しており、過大かつ根拠のないものである。
(二) A地について
本件丈量図は、本件管路敷用地として必要な土地を測量した買収計画図であるから、同図面に記載された字境は参考程度に記載されたにすぎない。また、A地付近は急峻な谷間であったから、その位置に本件里道があったはずはない。したがって、A地を甲地の一部とする控訴人らの主張には根拠がない。
(三) A、B各地共通
確かに本件地籍図及び本件地籍簿が訂正されており、その理由は不明であるが、少なくとも、これは控訴人らの主張するようなつじつま合わせではない。すなわち、本件地籍調査に至るまで、乙地全筆の地積測量はなされていなかった。本件管路敷の用地買収の際には、買収に必要な限度で丙地と一八七一番二を測量したのみで、残地の一八七一番一については測量していない。その結果、乙地の登記簿上の面積である二六三八平方メートルから、丙地の実測面積七九六平方メートルと一八七一番二の実測面積六二一・六九平方メートルを差し引いた、残りの一二二〇平方メートルが、一八七一番一の地積として登記された。そして、本件地籍調査における測量によって、いわゆる縄のびの一種として地積が増大したものである。
(被控訴人国の主張)
本件里道は本件拡幅道路の北側一メートルに位置した蓋然性が高いといえるが、空中写真は撮影の角度、高さ、日照等によっても影響されるから、これを鑑定した今田鑑定によって、B地を甲地の一部と特定するには無理がある。
2 仮にA、B各地が甲地の一部である場合、亡尊徳は右各土地の所有権を被控訴人熊本県らに譲渡したか。
(被控訴人らの主張)
亡尊徳は、昭和四九年六月二八日付け「官(公)民地境界確認書」(<証拠略>。以下「本件境界確認書」という。)を被控訴人福岡県に差し入れ、本件管路敷と甲地との境界のうち本件東側線を本件擁壁線とすることを承諾していた。そして、亡尊徳は、本件地籍調査を実施していた昭和五八年六月一三日、被控訴人らとの間で(なお、本件里道は熊本県知事が国の機関委任事務として管理し、その所管庁は同知事の出先機関たる玉名土木事務所であるが、本件地籍調査においては、その権限が荒尾市の職員に委任されていた。)、右境界のうち本件東側線を本件擁壁線とする一方、本件西側線を被控訴人熊本県らの主張線より一メートル北側に寄せた線とする旨の合意をした(以下、右合意を「本件合意」という。)。そこで、字図と登記簿に基づいて作成された調査図素図(<証拠略>。以下「本件調査図素図」という。)に、右境界の筆界標示杭の位置を書き込み、これを基に、本件地籍図1、2が作成された。亡尊徳は、昭和五九年一月一八日、本件地籍調査に基づいて作成された本件地籍図(原図)と本件地籍簿(案)を閲覧した上、地籍調査票(<証拠略>。以下「本件地籍調査票」という。)に、右調査結果に同意する旨の署名押印をした。したがって、亡尊徳と被控訴人らは、本件合意により、各所有地の範囲を確定し、真実の境界と本件合意による境界にはさまれた土地の所有権を互いに譲渡したものである。
(被控訴人熊本県らの主張)
仮に本件合意が認められないとしても、本件境界確認書によって右の所有権譲渡が合意された。
(控訴人らの主張)
以下のとおり、本件合意は成立していない。
(一) 本件合意について
亡尊徳は本件里道が本件管路敷の真ん中にあると主張していたのに、本件合意はこれが本件丈量図に記載された位置にあることを前提としており、しかも、右合意によって甲地の地積は増加していない。むしろ、本件管路敷用地として買収された丙地の登記簿上の地積のほうが、本件地籍調査による成果として五五平方メートル増加している。したがって、本件合意の内容は亡尊徳が一方的な譲歩をしいられるものであって、本件里道の位置にこだわり続けた亡尊徳がこのような譲歩案を了解することはありえない。
仮に本件合意があったとしても、最高裁昭和六一年四月四日判決及び最高裁同年七月一四日判決は、地籍調査の地籍簿・地籍図の作成行為は事実行為にすぎないから、地籍簿・地籍図は当該土地についての権利者である国民の法律上の地位ないし具体的権利関係に直接影響を及ぼすものではないと判示した原判決を支持しており、右判決に照らすと、本件地籍調査の過程で行われた本件合意によっては、具体的権利関係に直接影響を及ぼす境界の確定はできない。しかも、本件合意は本件里道の位置を変えるものであるから、本件里道の処分権限のない被控訴人熊本県らの職員だけでこれを成立させることはできないし、また、荒尾市の職員への権限の委任があったとしても、それは地籍調査の権限にすぎず、国有地の処分権限ではない。
(二) 本件境界確認書について
本件境界確認書の亡尊徳の氏名は被控訴人福岡県の職員によって記載され、「宮坂」の印影も亡尊徳のものではない印章によって顕出されており、本件境界確認書は偽造されたものである。また、本件境界確認書には地積測量図が添付されておらず、土地の範囲を確定できない。
(三) 本件調査図素図と本件地籍図1、2について
本件調査図素図には作成・調査が昭和五七年と記載され、本件地籍図1、2には測図が昭和五八年二月と記載されており、いずれも、本件合意の成立前から右境界を表示する図面があったことになり、同年六月一三日にこれが成立したこととは矛盾する。
(四) 本件地籍調査票について
亡尊徳は、昭和五九年一月一八日はもちろん、荒尾簡易裁判所への民事調停申立て前に登記簿謄本を取り寄せた平成元年七月一三日においても、本件地籍図1、2を閲覧していなかった。すなわち、本件地籍調査票の「地籍図番号」欄には本件地籍図1、2の各番号とは異なる二つの番号(右番号の各地籍図には乙地とは接しない甲地の西側部分が表示されている。)が記載され、その欄外に本件地籍図1、2の各番号が書き加えられている。そして、地籍調査票の「地籍図番号」欄の番号はそのまま登記簿謄本の「地図番号」欄に転記されるところ、甲地の平成元年七月一三日付け登記簿謄本には本件地籍図1、2の各番号とは異なる前記各番号が記載されているから、当時も、本件地籍調査票の「地籍図番号」欄外の各番号の記載はなかったことになる。また、本件地籍簿(<証拠略>。昭和五九年一一月二二日受付け)の甲地の「地図番号」欄にも、本件地籍図1、2の各番号とは異なる前記各番号が記載されている。したがって、亡尊徳は、平成元年七月一三日まで本件地籍図1、2を閲覧できていなかったことになり、亡尊徳が本件合意を了解していたとはいえない。
第三争点に対する判断
一 <証拠略>によれば、以下の事実が認められる。
控訴人らは、乙イ一五の1(本件境界確認書)について、亡尊徳名下の印影(A)が同人の印章によるものではないと主張する。しかし、乙イ一五の1のAの印影及び捨て印の印影(B)と、乙イ一(<証拠略>。本件覚書)の亡尊徳名下の印影(C)とを対照すると(<証拠略>)、朱肉の付き具合や押捺の仕方による、わずかな違いは認められるものの、A、Bの各印影はCの印影と同一のものと認められる。そうすると、Aの印影は亡尊徳の印章によるものと認められ、結局、乙イ一五の1は真正に成立したものと推定される。
1 本件拡幅
(一) 本件拡幅当時(昭和三九年ころ)、本件里道は西方から東方に若干の上り勾配となっており、その両側にある甲、乙各地はいずれも山林であった。そして、本件西側線のあたりでは、甲、乙各地とも本件里道より高かったが、本件東側線のあたりでは、甲地は本件里道より高かったものの、乙地は本件里道より低く斜面となっていた。甲地は昭和四〇年ころみかん畑にされ、乙地は昭和四二年ころ水田にされた。そして、乙地は平成二年ころゴルフ場用地として売却された。
(二) 今村勝馬ほか三名は、昭和三九年ころ、甲地東方の所有地でみかん栽培を始めるにあたり、当時一メートル程の幅員しかなかった本件里道に車両を通行させるため、ブルドーザーを使い、専ら甲地を削り取って(乙地も本件里道より高い部分は多少削り取られた。)本件里道を拡幅した。その結果、本件拡幅道路は、多少の広狭はあったが、平均して約二・五メートルの幅員となり、また、本件里道は本件拡幅道路と一体となって、その所在を確認することができなくなった。
右の幅員につき、亡尊徳は、原審(第一回)において、本件拡幅後の昭和四〇年ころに本件拡幅道路をさらに拡幅して四ないし五メートルの幅員にしたと供述する。しかし、甲、乙各地間の道路状の空き地の幅員を測定した今田鑑定では、昭和三七年九月二六日撮影の空中写真(<証拠略>)を基準に右幅員の倍率を測定すると、昭和四二年七月二九日撮影の空中写真(<証拠略>)では二・八倍から三・一倍になっているにすぎず、亡尊徳の右供述部分は採用できない。
2 本件管路敷の用地買収
(一) 被控訴人熊本県らは、昭和四八年一〇月二五日、本件管路敷の用地として丙地を買収したが、一方、亡尊徳からも、本件管路敷西側のみかん山を代金一五三万円で買収するとともに、甲地の北東端部分(その一部が別紙第三図の緑色部分)を代金七万六五〇〇円で買収した。そして、甲地の北東端部分については、甲地に関する登記簿が存在しなかったため、地籍調査の実施を待って、登記手続と代金の支払いをすることにし、昭和四九年一一月一三日、その旨の本件覚書が取り交わされた。
(二) 本件管路敷に水道管の埋設が終わった直後、亡尊徳は、被控訴人福岡県の職員に対し、本件拡幅道路の本件東側線に崩落のおそれがあって、通行に困難をきたすとして、擁壁築造を要請し、右要請により、水道管埋設工事の一環として、本件東側線に本件擁壁が築かれた。そして、亡尊徳は、昭和四九年六月二八日、被控訴人福岡県に対し、本件管路敷と甲地との境界が本件擁壁線であることを確認し、被控訴人福岡県の職員が右確認事項とともに亡尊徳の氏名を記入した、本件境界確認書の亡尊徳名下に印章を押捺し、これを右被控訴人に差し入れた。
3 本件地籍調査
(一) 昭和五八年四月一八日、本件管路敷と甲地との境界を確定するため、一回目の現地立会いが行われた。当日は、本件地籍調査の実施担当者である荒尾市の職員、被控訴人熊本県らの各職員及び亡尊徳が立ち会い、本件丈量図等に基づいて協議したが、被控訴人熊本県らが本件里道は本件管路敷の南側である主張したのに対し、亡尊徳が本件里道は本件管路敷の真ん中あたりであると主張して、合意には至らなかった。
(二) 昭和五八年五月三〇日、二回目の現地立会いが行われ、亡尊徳が被控訴人熊本県らの主張線を承諾したため、その境界線に沿って杭が打たれた。ところが、翌日の六月一日、亡尊徳から荒尾市に前日の合意を白紙に戻したい旨の電話があったため、再度、現地立会いをすることになった。
(三) 昭和五八年六月一三日、三回目の現地立会いが行われた。当日は、荒尾市の職員、被控訴人福岡県及び同大牟田市の各職員及び亡尊徳らが現地立会いをした。被控訴人熊本県の職員は欠席したが、右被控訴人は被控訴人福岡県及び同大牟田市の各職員に対して境界確定の権限を委任していた。現地における協議の結果、右被控訴人らの職員から、本件管路敷と甲地との境界について、本件東側線を本件擁壁線とする一方、本件西側線を被控訴人熊本県らの主張線より一メートル北側に寄せた線とする案が出され、亡尊徳はこれを承諾した(すなわち、本件合意)。
この点につき、控訴人らは、亡尊徳は本件里道が本件管路敷の真ん中にあると主張していたのであるから、このように譲歩をしいられるだけの本件合意に応じたはずはないと主張する。しかし、前記2の(二)のとおり、亡尊徳は昭和四九年には、本件東側線については本件擁壁線をもって境界とすることに同意していたのであるから、これを前提にすると、本件西側線については、被控訴人熊本県らの譲歩を引き出したということができ、亡尊徳が本件合意に応じたとしても不自然とはいえない。
(四) そこで、直ちに、前回に打たれた杭の一部が打ち直され、荒尾市の職員が本件調査図素図に右の杭の位置を書き込んだ。本件調査図素図には、本件東側線の西端で南側に突き出した位置に杭の記載がある。そして、本件調査図素図に基づいて、本件地籍図1、2が作成された。
この点につき、控訴人らは、本件調査図素図及び本件地籍図1、2はその作成日付けから本件合意前に作成されていたと主張する。なるほど、本件調査図素図には作成・調査が昭和五七年と記載され(<証拠略>)、本件地籍図1、2には測図が昭和五八年二月と記載されている(<証拠略>)。しかし、前記第二の一7のとおり、甲、乙各地を含む金山地区では昭和五七年ころから本件地籍調査が実施されており、右各図面には甲、乙各地以外の土地も記載されているから、甲、乙各地の境界が確定する前から他の土地の作図は完了していた可能性があり、右の日付けから直ちに、右境界部分が以前から作図されていたとはいえない。
(五) 亡尊徳は、昭和五九年一月一八日、本件地籍図(原図)1、2と本件地籍簿(案)を閲覧し、同日、本件地籍調査票に、右調査結果に同意する旨の署名押印をした。
この点につき、控訴人らは、本件地籍調査票及び本件地籍簿には本件地籍図1、2とは異なる地籍図番号が記載されていたので、亡尊徳は本件地籍図1、2を閲覧していないと主張する。なるほど、<証拠略>によれば、本件地籍調査票及び本件地籍簿には本件地籍図1、2とは異なる地籍図番号が記載されていたことが認められる。しかし、亡尊徳は、原審(第一回)において、右の機会に「図面」を閲覧したことを前提として、「図面」を閲覧したという趣旨で本件地籍票に署名押印したと供述しており(<証拠略>には、やはり閲覧を前提に、地積の訂正に同意したという趣旨で署名押印したとの記載がある。)、亡尊徳が「図面」を閲覧したことは明らかである。そして、右閲覧の事実があった以上、亡尊徳が懸案であった本件地籍図1、2を閲覧しないで済ますことはあり得ず、亡尊徳は右の機会に本件地籍図1、2を閲覧したと推認することができる。地籍図番号が異なっていたという事実だけでは、右認定を覆すことはできない。
二 右認定事実と第二の一の事実に基づいて検討する。
1 B地について
本件拡幅道路のうち本件東側線の方は、乙地は本件里道より低かったのであるから、乙地が削り取られるはずはなく、すべてが甲地を取り込んで拡幅されたものと認められる。そうすると、本件拡幅道路の幅員約二・五メートルから北側の本件里道の幅員約一メートルを除いた、南側約一・五メートル幅の部分は甲地の一部であったと推認され、さらに、本件合意によって、本件擁壁線まで甲地が本件管路敷に取り込まれたことが推認される。そうすると、少なくとも、本件擁壁線から北側一・五メートル幅の土地は甲地の一部と認められるから、B地の大部分(B地に、亡尊徳が被控訴人熊本県らに売却した甲地北東端の土地が含まれているか否かは、控訴人らがこれを考慮してB地を特定したにもかかわらず、なお不明である。)は甲地の一部と認めることができる。
2 A地について
控訴人らは、本件丈量図の字境の表示が正確であることを前提として、A地は甲地の一部であると主張する。しかし、本件丈量図には字境が一点鎖線で表示されているものの、とぎれとぎれに記載されており、調査検討の上で記載したにしては、あまりにずさんであること、甲、乙各地付近では、買収当時から地籍調査が予定されており、本件管路敷用地の一部については、甲地の特殊性があったにしても、将来の地籍調査を待って決済することとされていたこと、以上の事実に照らすと、右字境の表示の正確性には疑問があり、他に右字境が正確であると認めるに足りる証拠はない。したがって、A地を甲地の一部と認めることはできない。
3 本件合意について
本件合意は、亡尊徳と被控訴人熊本県らとの間で、甲地と本件管路敷との境界線を確定したものであって、右合意当事者の意思としては、合意による境界線と真実の境界線とが異なるときには、両境界線にはさまれた土地の所有権を一方から他方へ譲渡することを意図していたものと解することができる。そして、本件合意前、本件拡幅道路、ひいては本件管路敷の南側約一・五メートル幅の部分は甲地の一部であったと推認される(本件西側線の方は、乙地も本件里道より高かったから、本件拡幅において乙地が削られた可能性もあるから、右幅員より若干せまくなる。)から、本件合意による境界線と本件里道との間には甲地がはさまっていたことになり、この甲地の所有権が被控訴人熊本県らに譲渡されたものと認められる(したがって、本件合意に被控訴人国が関与していなかったとしても、その効力に影響はない。)。
これに対し、控訴人らは、地籍調査の地籍簿・地籍図は当該土地の権利者である国民の法律上の地位ないし具体的権利関係に直接影響を及ぼすものではないから、本件地籍調査の過程で行われた本件合意によっては、具体的権利関係に直接影響を及ぼす境界の確定はできないと主張する。確かに、地籍調査それ自体及びこれに基づいて作成された地籍簿・地籍図は、土地の現状をあるがままに調査・把握してこれを記録するのであるから、境界を形成したり確定する効力を有しない。しかし、地籍調査に際して境界の合意があれば、地籍調査等の効力としてではなく、右合意の効力として所有権移転の効果が生じることもあるのであって、本件合意が本件地籍調査の過程で行われたからといって、右効力を否定することはできない。
第四結論
以上によると、A、B各地につき控訴人らが所有権を有するとは認められないから、控訴人らの請求はすべて理由がない。よって、本件各控訴及び控訴人らの当審における請求をいずれも棄却する。
(裁判官 下方元子 木下順太郎 川久保政徳)
物件目録
一 荒尾市金山字淀野一八六一番
山林 四三一六平方メートル
二 荒尾市金山字柳添一八七一番三
公衆用道路 八五一平方メートル
(別紙図面略)